およぐこころ、たゆたうからだ

100兆ドラクマko.i.tsu、自身のメンタルヘルスの記録

本日のソワソワ感

 2018年1月4日。午前中にソワソワ感がやってきました。朝のルーティンワークを終えたころのことです。

 居ても立っても居られない感情だけがほとばしります。少し落ち着くまで部屋の中をウロウロしました。読書……掃除……家事……ううむ、手につきません。ルーティンはできていたのに。

 手帳を手に取ります。ToDoリストを目に入れました。ここでちょっとソワソワ感が沈静化。ひとつひとつ落ち着いてこなしていこう、そう思いなおすのです。呼吸法を実践するのも、ひとつの手。ゆっくり細く呼気を出していきます。出し切ったと思えるところまで行くと、自然に空気を吸い込むことができます。ゆっくり繰り返します。

 やがて落ち着きを取り戻し、書き物やら読書やら、またひとつずつできるように。もうあと半歩で、何かつかめそうな気がします。健康状態についても、書きたい題材についても。

 ある程度の「頑張り」は要るのだと、個人的に思っています。

けったいな恐怖感

 強迫性障害由来とみられる、一つの妄想があります。ハサミが怖くなる内容のものです。日々、使う道具を手にするとスイッチが入ります。

 「ハサミ恐怖」の内容、前回の記事と矛盾するかとは思いますが記します。

・自分の頭髪をザクザクと切り出してしまうのではないか

・大切にしている本や書類を切り刻むのではないか

自傷行為(身体へ切り込む)をしだすのではないか

 ――などなどなど。

 こうしたときは、敢えてハサミを手放しません。手放してしまうと、「持たなかったから行動に移さなかっただけだ」と思い込む、新たな波に翻弄されるからです。ぐっとしっかりハサミを持ちます。「これだけ切る、これだけ切ったら終わる……」と自分のあたま・こころの中で繰り返しつつ、必要な作業を行います。全て作業を終えるころには、「ほら、しなかっただろ?」と自分にさらに言い聞かせます。

 儀式的に自分に言葉かけをすると、安堵感が妄想を飲み込むような感覚が訪れます(必ず、ではないのが厄介な点ですが)。これでひとまずは乗り越え完了。

 日々、こうして脳内のけったいな恐怖感と向き合っています。今年も恐れの妄想が湧きあがる日々を送ることになるでしょう。でも、こころの奥底では、恐怖感が薄れつつあります。このまま寛解でもしてくれたら、ちょっといいなあ。そう思いつつ本日の更新とします。

とあるカウンセラーとの思い出から

 学生生活をしていた大阪にて発症、のち東京の親許へ戻った私。そんな2002年後半のことだったと思います。新宿から遠くない場所にある、メンタル関係の研究所でカウンセリングを受けていました。

 強迫性障害とも診断をされたなかでのこと。現在(2018年)以上に頻繁に、倒錯的な妄想と仮称する、嫌な思考が浮かぶことがありました。この障害のことをあまりご存じでない方を、いたずらに怖がらせるのは本意ではありません。なので、思考の詳細は書くことをひかえます。ただ、「○○ということを相手にしてしまうのではないだろうか」という考えが強烈に脳内を支配するという点だけ、ご理解いただけたらと思います。

 実際には実行に移すこと無き思考。あるカウンセラーは「悪魔の声」という表現を使うことを躊躇いませんでした。別段、そのカウンセラーが、オカルトや神秘主義に傾倒しているわけではありません。要は「自分で自発的に行動しようとして考えていることとは全くもって違う」ということを、患者である私に認知認識させるための表現だったのでしょう。

 このカウンセラーとの出会いが、強迫性障害との付き合い方を変えてくれました。統合失調症由来の妄想はそれ以降も手を焼き続けるのですが、強迫性障害のほうはある程度やり過ごせるようになってきたのです。

 信頼できる医師・カウンセラーとの出会い、本当に大切だと思います。今回申したいことは以下のとおり。医師との出会いを求められる状況にあるならば、尋ねて周ることはけして悪くはないという点です。

 もちろん症状の程度や方向性によって、患者自ら動けない、相手医師を信じられない場合も多々あります。そうであればこそ、諦めないことを心に刻み付けていてほしいなと、自らにも、病の同胞に対しても思い願うのです。

 きれいごとめいたブログ記事になったかと思います。でも、諦めたら、何事でも、そこで試合終了です(とある漫画のセリフより……)。自らの苦境や不幸さを嘆く間に、できることが実は少なく無いこと、それを忘れずにいたい・いてほしいと思います。

陰性症状ってやつのせいなんだ

 統合失調症と言いますと、とかく過激な妄想や行動といったイメージをお持ちの方が多いのかなと思っています。まあそうした面は多々あります。個人差ありとはいえ、まあ頭が無駄によく回っているような感じとも言いますか。

 でもそうした症状だけではないのです。陰性症状としての「鬱症状」、これが結構手ごわいやつでして。

 最近は薬の効果もあってか、私個人は踏ん張りが効くような感覚で日々おります。とはいえ鬱症状がゼロになることはありません。

 一人暮らしを強行していたころは、痩せゆくばかりでホントに食べられない時期を過ごしたことがあります。親友や恩師にどれだけお世話になり、迷惑をかけたことか。思い返すたび詫び足りない心境になります。でも死ねないんだなこれが。

 死ぬの死なないのはまあさておき、抗うつ剤も上手に使いこなして、鬱症状脱却を図るのが一本道のようではあるなと、いま改めて思っています。薬は上手に使えば悪いものではありません。

 好きな時代物漫画の中のセリフ(そのくせうろ覚え)に「(身体悪くしたら)ジジイだって鼻つまんで(猪)肉食うだろ」というのがあります。まあそれにも似たもんですよ。薬飲むって言いますのは。

 当世だれがいつ罹患するかわからない「うつ病」や「統合失調症」。完治がたとえ無かったとしても、薬と程よい友だちになる期間、大切にしていきましょう。

妄想との対峙

 2017年12月26日。とある方の手伝いをしに三木町方面へ。うどん店で、お昼をごちそうになりました。その際は何も妄想は出なかったのです。ただ、その方のオフィスへ戻るときに、自動車内で少し妄想発生となりました。

 「今暴言はいたらどうなるだろう」

 まあ、いつものやつです。深呼吸と、ある「儀式」行動を行い、考えを切り替えていきました。

 頓服のお世話になるまでは行かなかったので、まあなんとか合格点でしょうか。及第だと思うことにします。

読書できない症候群

 病気のせい、というよりも思い込みの範疇であろうことも書いてみます。

 日中、特に陥りやすい「活字が身体をすり抜けてしまう」感覚。これにいったんはまり込むと、本を手に取ることすらできません。自筆含めた手書きの文字は読めます。標識標柱の類もしっかり判読できます。書籍のかたちになっているものを、手に取れなくなるのです。

 焦りやソワソワとした感覚が組みになることも、ときどきあります。そういう時は、深呼吸、ストレッチ、音楽鑑賞等でほぐすと効果的です。ただ、あまりに焦燥感が強いときは、上記の改善策を思い出すまで多動みたいになります(自覚はある)。

 これらの感覚に陥っているとき、注意力も下がっているのでは、とお疑いの方がいらっしゃるかもしれません。実際には、過敏になっていることのほうが多い記憶があります。

 本が読めないくらいなんでもない。と、突き放して考えてみたこともありました。それで一時的に気を紛らわすことはできます。ただ、根本的には解決しない(感覚はまたいずれ強めにぶり返してくる)のです。

 もしかしたら、薬の副作用でなるのかとも妄想したこともあります。アカシジアに類するものではないかとの疑いを自分に持ったのです。

 ……といったあたり。まあ、医師に念のため相談してみようと思います。

2017年4月の検査について

 2017年4月17日。かかりつけ医のところで検査を受けました。

 IQは116、ただし算数がとても弱いと。また、自閉的にしてADHD気味であるものの、深刻ではない由聞きました。

 「こだわりが強い」「考えと出力との間に乖離がある」のは自覚どおりの結果が告げられました。加えて「焦りがち」「打たれ弱い」のもその通りの結果通告でした。

 無駄に人の何倍も思考して、思いめぐらせているのに、表現がついてこない点。語彙力不足や表現訓練の足りなさだけではないようです。深刻だなと思っています。

 なんでも病気のせいにしてはいけない、そう思っています。ただ、生活実態は病に引きずられたままと言いますか、甘えが強いなというのは反省するところです。療養生活返上を目指し、医師と重々相談しつつ、取り組むことですね。

 以上、半年以上前のことをざっと振り返りました。改善してないなあ~……。