およぐこころ、たゆたうからだ

100兆ドラクマko.i.tsu、自身のメンタルヘルスの記録

闇が猛烈に

 2018年1月9日。朝、ルーティンをこなしたあとのこと。

 不意にできたこころの隙間に、闇が勢いよく流入してくる感覚に陥りました。「闇」と「病み」。ダジャレでもなんでもなく、そうとしか表現できない感覚。何かわからないものによって、こころが翻弄されるように思えます。

 その時はペンを握りました。「こんな感覚になったよぅ」と、泣き言をそのまま記してみたのです。書きながら思いました、「逃げよう、これ」と。

 入ってくるものから逃げる、自分から逃げる、そうした"行動"だとは思います。でも時には撤退して良いと思うのです。

 どう思って「逃げた」か。それは「こんな意味不明で弱い自分を赦そう」と思うことでした。ありのままの自分を、「愛してみよう」と思い直すと言い換えられるかもしれません。

 ものの数分で落ち着き、「仕事」へ戻っていくことができました。こうしたこともあるのです。

 さて今回も、ものすごく意味不明さが増した記事となりました。まあでもこれも「本当」なのでした。ではまた次回に。

今日の妄想180108

 2018年1月8日。今日も「ハサミ恐怖」が出ました。まあ通例になりつつありますね。時々弱く出るだけだった時期もありますが。

 さて本日は、薬の仕分け箱(一週間単位、朝・昼・晩・眠前のつごう28マス)に薬を入れる作業時に、「ハサミ恐怖」がやってきました。ドキドキが強まり、「切ってしまうのでは」と思う対象物から、たまらず目をそらします。

 こういう時のもう一つの対処法(あくまで個人的なものです)として、切るべきものを切るとき、倍の集中をするんだと思うようにするというのがあります。

 ハサミで紙細工を切り出すかのように、手先指先に意識集中。薬の切り分けを終えたら、今一度ハサミをしっかり持ちます。一呼吸おいて「ほら、他のモノを切らなかっただろう」と自らに言い聞かせました。

 あとはハサミをしまうだけ。めでたしめでたし。今は落ち着いて振り返り、ブログにこうして記録を残しています。ややこしややこし、でもありますわいな。

 といった話でした。また次回!

知恵熱なわけは無く

 2018年1月5日。図書館へ行きました。帰宅後、肩ひじ張らずに読もうと思い、俳句の本を手にします。はてさて、楽しさ半分、しんどさ半分に陥ってしまいました。

 まあ、ここまではしばしばあることです。活字が入ってこない感覚。すり抜けてしまうような感覚にもなります。今日はそれに加えて、頭がクラクラしだしました。難しい本ではないのに。わかりやすく楽しい本なのに。

 結局、50分ほど本を入れ替えつつ読みまわりましたところで、ダウン。30分の仮眠をとることにしました。

 眠りから覚めると頭はスッキリ。再度、本を手にできました。

 まあ、「思うように読めなかった」と自分を責めたりしなくなっただけ、改善かもしれません。少しは大人の中身になってきたのかしら、このおじさん。

同じ抱負をまたいだく

 今週のお題「2018年の抱負」

 2018年は何としても、社会復帰を掴み取りたいです。どんなかたちでも、働けるように。今までの長いトンネル、無駄ではなかったことを他力本願ながら証明致したく。

 企図している業態に就けたらなと思っています。

本日のソワソワ感

 2018年1月4日。午前中にソワソワ感がやってきました。朝のルーティンワークを終えたころのことです。

 居ても立っても居られない感情だけがほとばしります。少し落ち着くまで部屋の中をウロウロしました。読書……掃除……家事……ううむ、手につきません。ルーティンはできていたのに。

 手帳を手に取ります。ToDoリストを目に入れました。ここでちょっとソワソワ感が沈静化。ひとつひとつ落ち着いてこなしていこう、そう思いなおすのです。呼吸法を実践するのも、ひとつの手。ゆっくり細く呼気を出していきます。出し切ったと思えるところまで行くと、自然に空気を吸い込むことができます。ゆっくり繰り返します。

 やがて落ち着きを取り戻し、書き物やら読書やら、またひとつずつできるように。もうあと半歩で、何かつかめそうな気がします。健康状態についても、書きたい題材についても。

 ある程度の「頑張り」は要るのだと、個人的に思っています。

けったいな恐怖感

 強迫性障害由来とみられる、一つの妄想があります。ハサミが怖くなる内容のものです。日々、使う道具を手にするとスイッチが入ります。

 「ハサミ恐怖」の内容、前回の記事と矛盾するかとは思いますが記します。

・自分の頭髪をザクザクと切り出してしまうのではないか

・大切にしている本や書類を切り刻むのではないか

自傷行為(身体へ切り込む)をしだすのではないか

 ――などなどなど。

 こうしたときは、敢えてハサミを手放しません。手放してしまうと、「持たなかったから行動に移さなかっただけだ」と思い込む、新たな波に翻弄されるからです。ぐっとしっかりハサミを持ちます。「これだけ切る、これだけ切ったら終わる……」と自分のあたま・こころの中で繰り返しつつ、必要な作業を行います。全て作業を終えるころには、「ほら、しなかっただろ?」と自分にさらに言い聞かせます。

 儀式的に自分に言葉かけをすると、安堵感が妄想を飲み込むような感覚が訪れます(必ず、ではないのが厄介な点ですが)。これでひとまずは乗り越え完了。

 日々、こうして脳内のけったいな恐怖感と向き合っています。今年も恐れの妄想が湧きあがる日々を送ることになるでしょう。でも、こころの奥底では、恐怖感が薄れつつあります。このまま寛解でもしてくれたら、ちょっといいなあ。そう思いつつ本日の更新とします。

とあるカウンセラーとの思い出から

 学生生活をしていた大阪にて発症、のち東京の親許へ戻った私。そんな2002年後半のことだったと思います。新宿から遠くない場所にある、メンタル関係の研究所でカウンセリングを受けていました。

 強迫性障害とも診断をされたなかでのこと。現在(2018年)以上に頻繁に、倒錯的な妄想と仮称する、嫌な思考が浮かぶことがありました。この障害のことをあまりご存じでない方を、いたずらに怖がらせるのは本意ではありません。なので、思考の詳細は書くことをひかえます。ただ、「○○ということを相手にしてしまうのではないだろうか」という考えが強烈に脳内を支配するという点だけ、ご理解いただけたらと思います。

 実際には実行に移すこと無き思考。あるカウンセラーは「悪魔の声」という表現を使うことを躊躇いませんでした。別段、そのカウンセラーが、オカルトや神秘主義に傾倒しているわけではありません。要は「自分で自発的に行動しようとして考えていることとは全くもって違う」ということを、患者である私に認知認識させるための表現だったのでしょう。

 このカウンセラーとの出会いが、強迫性障害との付き合い方を変えてくれました。統合失調症由来の妄想はそれ以降も手を焼き続けるのですが、強迫性障害のほうはある程度やり過ごせるようになってきたのです。

 信頼できる医師・カウンセラーとの出会い、本当に大切だと思います。今回申したいことは以下のとおり。医師との出会いを求められる状況にあるならば、尋ねて周ることはけして悪くはないという点です。

 もちろん症状の程度や方向性によって、患者自ら動けない、相手医師を信じられない場合も多々あります。そうであればこそ、諦めないことを心に刻み付けていてほしいなと、自らにも、病の同胞に対しても思い願うのです。

 きれいごとめいたブログ記事になったかと思います。でも、諦めたら、何事でも、そこで試合終了です(とある漫画のセリフより……)。自らの苦境や不幸さを嘆く間に、できることが実は少なく無いこと、それを忘れずにいたい・いてほしいと思います。